【小話】反義語であり同義語でもあるという話

 人は「〇△X」という言葉をつくって、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物である。

 こういうことをしていると、言葉を道具としてつかおうとするさいに不都合や不具合が起きるだろうと考えられます。たとえば、次のようなことが起こるでしょう。

「〇△X」という言葉で何を名指すのかが、人によってズレる、つまり異なる。

 単純に考えてください。

「〇△X」は必ずしも「〇△X」ではなくなります。なぜなら、この「〇△X」という文字(言葉)を読んでいるあなたと、「〇△X」と書いた私は別人であり、それぞれが「〇△X」について別の思いをいだくからです。

「ネコ・猫・ねこ・neko」という言葉を例に取ります。

「ネコ・猫・ねこ・neko」は必ずしも「ネコ・猫・ねこ・neko」ではなくなります。なぜなら、この「ネコ・猫・ねこ・neko」という文字(言葉)を読んでいるあなたと、「ネコ・猫・ねこ・neko」と書いた私は別人であり、それぞれが「ネコ・猫・ねこ・neko」について別の思いをいだくからです。

 辞書や百科事典や図鑑で「ネコ・猫・ねこ・neko」を調べれば同じことが書いてあるだろうという意見もあるでしょう。孫引きが多い出版界ですが、じっさいに試してみると、たぶん微妙に異なるはずです。

 辞書での語義は定義やルールや掟というよりも、慣例であったり、だいたいの意見の一致を記述したもの、つまり報告書ですが、編者によって記述はずれます。

 記述とは、既述であり、奇術もしくは詭術でもあるのです。言葉による記述でも絵や図や写真による、広義の記述や説明でも同じです。

 辞典や事典や図鑑の絵や写真を見比べるとわかりやすいと思います。著作権の都合で、まったく同じ絵や写真がつかわれることはないからです。孫引き不可という意味です。

シャム猫だ」、「よりにもよってアビシニアンじゃん」、「これは子猫でしょ?」、「ずいぶん歳を取った感じの猫ちゃんね」、「あ、女の子だ」、「お、雄だ」

 ぜんぶ猫ですが、自分の思いえがいていた「ネコ・猫・ねこ・neko」と異なっていても不思議はありません。というか、それが各人の思いの中にある「ネコ・猫・ねこ・neko」というものであり、それはつねに移りかわるものなのです。

 こうした事態は、愛でも美でも哲学でも真理でも正義でも悟りでも民主主義でも死でも宇宙でも同じです。不都合や不具合が生じるという意味です。広い意味での人間関係、集団間や国家間や民族間や宗教間での争いや戦争にも至ります。あっさり言いましたが、ゆゆしい問題なのです。

「ヒト・人・ひと・hito」「人間・にんげん・ニンゲン・ningen」でも同じことが起きるでしょう。

 ところで、女と男、こどもとおとな、未成年と成人、娘と女、娘と父、子と親、少女と少年、おばあちゃんとおじいちゃん、女性と男性って、どんな関係にありますか?

 反義語とか反対語ですか? それとも同義語とか同意語ですか?

 たぶん多面的である世界や森羅万象を、一義的な言葉で、あるいは言葉を一義的に用いて表せば、矛盾が生じるに決まっています。どんなに明晰で明快に見えてもです。すっきりと明快な形で論理的に破綻しているということもありうるという意味です。たぶん、ですけど。

 もちろん世界が一面的で単純明快であるなら、話は別です。たぶん、ですけど。

 なにしろ、一義的と多義的、一面的と多面的も、言葉ですから。

 言葉の世界にどっぷりつかっていると、言葉の不備や、言葉がすでにかかえている破綻に気づかないものです。それは人が言葉に同化して身びいきしているからだという気がします。

 人は「〇△X」という言葉をつくって、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物である、というお話でした。

 ごめんなさい。反義語であり同義語でもあるというお話でした。