【小話】短いの反対は長いではないという話

 五感が響き合う、つまり五感を別個のものとは感じないというのは、誰もが何かの形で日々経験しているのではないでしょうか。べつに超常現象とか神秘体験などではありません。そもそも人にとって五感は独立したものではないはずなのです。

 言葉で、痛くなることがある。気持よくなることがある。せつなくなって涙がこぼれることがある。色が見えることがある。苦しくなることがある。においを感じることがある。むずむずすることがある。

 言葉にうながされて、お腹が鳴ることがある。誰かの声がするような気持ちになることがある。背中を撫でられたような気がすることがある。足もとをすくわれたような感覚に陥ったことがある。体がほてってぽかぽかしてくることがある。

 ある種の文章や写真や動画を読んだり見ると性的な興奮を覚えることがありますが、これは誰もが経験することです。萌えたり(燃えたり)、催さないほうが変なのです。書き言葉つまり文字や形つまり映像が快楽へと変換されるわけです。書き言葉や形や模様(視覚)が交換機を経て別の言葉(身体という知覚の総体)に翻訳されると考えてもよさそうです。

 こんなふうに五感の一部が別の五感やその一部へと翻訳されると考えると、何かの仕組みが働いているような気がしてきてきます。まるで装置とか機械みたいじゃないですか。

 印刷物であれば紙面のインクの染みでしかない活字や文字や画像、スマホやPCであればディスプレー上の画素の集まりである活字や文字や画像。そうした物質が視覚という仕組みをとおして人(脳と言ってもいいかもしれません)を刺激した結果でしょうね。

 人はインクの染みや画素を錯覚して「あそこ」だと思い込むわけです(「あそこ」が「どこか」は人によって異なります、人それぞれ)。錯覚を知覚と言い換えても大差ありません。いずれにせよ、錯覚の利用はヒトにとって素晴らしい発見あるいは発明であり性癖なのです。

 性的な快感は性的と言われている器官だけで感じるわけではありません。五感を動員した行為です。

 視覚:表情、身振り、仕草、目くばせ、目つき、皮膚や肌の汗、動き。
 聴覚:声、音(詳しくは書きません、想像してください、それが大切でありむしろほのめかすことで何かが伝わることがあると思います)。
 味覚:味(汗や唾液の味とか……)。
 嗅覚:におい(匂い、臭い、いろいろありますね、もちろん相手のつけている香料のにおいや部屋のにおいも重要な働きをしますね)。
 触覚:肌触り、皮膚と皮膚、粘膜と粘膜(いやらしくて済みません)、手触り、足触り、部屋の温度を皮膚で感じる、腹部と背部と頭部では皮膚的な感覚が同時にまちまちのことがある、痒み、痛み、(痛点での皮膚的な痛みのことです)、あと振動や揺れ(いやらしくて恐縮です)も触覚で感じる気がします。

 想像してみてください。性行為は五感を総動員した体験であり出来事ではないでしょうか。

 話は飛びますが、あなたは「あれ」が好きですか? あなたは「なに」が好きでたまらないでしょう? とうとつに意味深な質問をして、ごめんなさい。いろいろ想像してしまいますよね。

 あれ、それ、これ、なに。

 何だかいやらしくないですか? こういうのは、恐怖や不安という感情でも同じです。スティーヴン・キングの大作『IT』を思い出しましょう。

 アルファベット二文字の it (一音節)がすべてを語っているのです。日本語でも「あれ、それ、これ、なに」というふうにたった二文字(二音節)ですね。ずばり名指すよりも、あるいは長々と言葉を費やすよりも、「あそこ」とか「ちょめちょめ」とほのめかすほうが、ずっと〇〇いのです。

 言葉の世界とは違って、短いの反対は必ずしも長いではないのが現実界なのです。なんてめちゃくちゃに短絡したくなります。鼻の下が長いわりには、意外と短気なのです。

 現実では短いの反対は長いではないというのは、言葉はどんなに頑張っても(じっさいに頑張るのは人ですが)現実には追いつけないことの比喩であり象徴だとも言えそうです。言葉はつねに「足りない」「抜けている」「まばらである」という意味です。だから、人の錯覚に期待するしかないのです。

 言葉は交感。言葉は交歓。言葉は交換。言葉は交換機。言葉は翻訳機。

 ここまでに言葉言葉とずいぶんたくさん書きましたが、言葉が言葉をやめた瞬間に、言葉から快楽が立ちあらわれるような気がします。