【小話】「谷崎」も「川端」も「乱歩」も、「言葉」であり「記号」なのです

*Mの世界:

 基本は、教育と演技(演劇・振りをすること)と遊戯。要するに、プレイ。

 Mはどんな人?:

 教育者(自分が気持ち良くなるためのストーリーと方法を相手に教える教師)。しつこい、根気強い。かまってちゃん。自己中だけど、快感を得るためなら少々のことは我慢する。言っていることと望むことがしばしば真逆(たとえば、「駄目」は「OK」、「やめて」は「続けて」、「死にそう」は「めっちゃ気持ちいい」)。主導権は自分が握る。要するに、めんどくさい。最も重要なポイントは、Mはじつは「ご主人」であること。

 Mの相手には、どんな人物が適するのか?:

 従順。元気で健康体であることが望まれる。Mのお願いや注文(実は命令と指示)に根気よく従う良き生徒。要するに、Mの奴隷。必然的にMの協力者や「共犯者」に仕立てあげられてしまう。なお、Mの相手をMがするという状況は珍しくない。

 Mの相手に最も向かないのは?:

 S。

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*Sの世界:

 基本は暴力。しかも一方向(一方的)。要するに、攻撃。

 Sはどんな人?:

 自己中で相手に有無を言わせない。忍耐強くない。快感を得るためのストーリーはなく、計画性は希薄で衝動的。ある意味、単純。主導権という観念すらない。とは言え、もちろん、知性や知力とは必ずしも関係があるわけではない。

 Sの相手には、どんな人物が適するのか?:

 従順。元気で健康である必要はない。相手が人間であることは言うまでもないが、極端な場合には相手は物(比喩)でもいい(たとえば、相手は比喩的な意味での切断された四肢であったり、比喩的な意味での死体であったりしてもいい)。なお、被害者や犠牲者になる可能性が高い。したがって、Sの行為は犯罪との親和性が高いと言えよう。

 Sの相手に最も向かないのは?:

 M。

        *

 以上の説明(蓮實重彦先生経由ジル・ドゥルーズ先生のお話から私が勝手に作ったものです)から、「SとM」とか「SM」と一般に呼ばれている言葉やそれにまつわるイメージや思い込みの粗雑さがお分かりになったと思います。なお、以上の図式が図式である以上粗雑で杜撰なイメージと思い込みであることは言うまでもありません。正しい視点などでは毛頭ないという意味です。そもそもメタな視座などあり得ないのです。

 ところで、みなさんもお感じになるでしょうが、谷崎潤一郎はMですね。健康かつ元気でかまってちゃんな女性に振り回されるのを喜んでいます。たとえば『痴人の愛』や『鍵』や『瘋癲老人日記』を読むとよく分かります。

 一方、川端康成はSだという気がします。かなり自己中で強引で有無を言わせないところがありますよね(『みずうみ(みづうみ)』ではストーカーまでします)。しかも、『禽獣』のように相手が「か弱すぎ」たり(相手が人間とは限りません)、『片腕』のように相手は切断された腕と手であって、いわば物ですが、これは幻想であり暗喩または換喩と解すべきでしょう、あるいは『眠れる美女』のように眠っている(ある意味死体や物と同じです)場合もあるのですから、怖い、怖すぎます。

 江戸川乱歩はたぶんかなり偏ったMでしょう。Mというだけでは済まされないという意味です。乱歩は変化球をばんばん投げましたよね。奇想とも言います。これでもかこれでもかという具合に。あれはすごいです。Mというより、M寄りのH(辞書に載っているHという意味です)というべきかもしれません。

 私がすごいと思って何度も読み返したのは、短編では『人間椅子』と『鏡地獄』と『芋虫』、長編では何と言っても『孤島の鬼』(とりわけ秀ちゃんと吉ちゃんが出てくる部分の妖しさと悲しさ)です。

 乱歩の作品は、谷崎と同様にその主要なものが青空文庫に入っているので、まずはネットで目を通してから本を読むのもいいかもしれません。「いやだ、こんなの無理みたい」とお感じになれば、バイバイということです。

 なお、谷崎も川端も乱歩も、MだのSだのHだのも、その作品の傾向がですよ。ご本人については知りませんので、誤解なきようにお願いいたします。作品だけを前にして、その作品を書いた人について語れるわけがありません。騙るなら別ですけど。

 つまり、「谷崎潤一郎」も「川端康成」も「江戸川乱歩」も、「言葉」であり「記号」なのです。それでしかありえないのです。あなたも私もそうだと言えます。noteという場にいる限りにおいては、生身の人間ではないわけです。私はあなたに触れることはできません。でも、あなたの言葉になら「触れる」ことができます。それ以上でもそれ以下でもありません。

 それ以上とそれ以下にかかわるのが、「読む」であり批評であり文学研究なのです。この文章もそうです。「言葉」と「記号」と出会うのは稀な出来事であって、それはもはや事件というべきなのでしょう。言葉はそこにあるのになかなか読めないし、出会えません(つい書かれていないものを読んでしまうのです、この文章も例外ではありません)。

 そうなのです。ここでは、あなたも私も言葉ですね。嘘じゃありません。こ・と・ば。いま、私たちはめちゃくちゃリアルな話をしています。スーパーリアル、超現実主義、超写実主義、超自然主義、超絶悶絶レアリスム、シュールレアリスム

 おふざけはさておき、以上のように「SとM」にまつわるイメージは杜撰(ずさん)で、かなりいい加減なものですが、こうした例は他にも多々あるはずです。

 別に否定はしませんし、否定などできるわけがないのです。いろいろな解――正解ではなく解釈や解答――がある社会のほうが健全ですし、だいいち生きやすいのではないでしょうか。蛇足ですけど、ジル・ドゥルーズ先生はそう言っていたような気がします。

 SでもMでもHでもLでもZでも、何でもいいです。気持よければ何でもいいとは言いませんが、言葉のもたらす多様な快と解と懐と、ときには壊にも触れ、それを楽しみたいと思っています。