【小話】VRで自分に会いにいったその帰りに

 写真機では長いあいだ自分を撮ることはできませんでした。簡単に撮れなかったというべきかもしれません。それがいまではできます。スマホのカメラで可能ですが、簡単というわけではないでしょう。誰もがけっこう苦労して撮っています。

 いろいろテクニカルな問題があって苦労なさるのでしょうが、「こんなはずじゃない」とか「私はこんなふうじゃない」という不満が根っこにあって、スマホに付いているレンズを恨みつつ、撮る位置や光の具合を調節しているのではないでしょうか。

 人は自分を自撮りで撮影し、その像をリアルタイムで見ることができるようになりましたが、それでも満足できていないもようです。がっかりしているからです。ちょっと違うんじゃない? こんなもの? これだけ? という感じです。

 鏡や写真や動画で自分を見る行為は、失望感と隣り合わせなのです。だから、毎日毎日、お化粧やエステや身だしなみに骨身を削るのです。

 人が満足する形での究極の「自分を見る」とは、「別人として自分を見る」ではないでしょうか。自分が別人にならないかぎり、それが不可能だと分かっているので、失望感と不満は永遠に続くと思われます。「もっともっと」「もっと見たい」が延々と続くという意味です。

 本当の自分の姿は、街ですれ違った見知らぬ人の目に映った自分だ。そんな意味のフレーズを古井由吉の文章で読んだ記憶があります。別人の目で見る自分ということでしょうね。いま考えると分かる気がします。

「光学的に見える」だけでは「本当の見る」ではないとも言えるかもしれませんが、この「本当の見る」はおそらく幻想でしょう。知覚に限界のある人間にはありえないという意味で強迫観念であり、抽象にちがいありません。

 スマホで自撮りが可能になった気がしたとき、「自分が見えない」という不可能性の沼のなかにいる人間は歓喜したと思われます。「ついにやった!」と。

 水面や鏡に出会って自分の姿が見えないという事実に気づいた人間は、写真に出会って一時的に歓喜したものの、すぐに失望し、つぎに映画や個人フィルムにもがっかりし、現像の要らないポラロイドにも意気消沈し、デジタルカメラと三脚をつかっての撮影にも落胆し、スマホカメラの登場でリベンジを果たそうとして張りきったのはよかったのですが、やがてその空しさにしょげこむ事態となりました。

 ついにリベンジしたかの喜びは一時的かつ一過性のもので終わりました。「やっぱり見えなかった」「こんなはずじゃない」「こんなものか?」

 欲求や欲望は目的を失っても空回りするそうです。というか、まわること自体が目的化するらしいのです(経済活動や金融や資本主義がいい例です)。本来はまわらなければならない根拠がないだけに(根拠は捏造したものだからです)、しつこいということでしょうか。分かる気がします。人ごとではありません。

 きわめて近い将来に仮想現実で自分を見たり、自分に会ったり、自分と対面するゲームが流行りそうな強い予感があります。アバターより進化した話です。自分を見たいというのが、大金を投じて宇宙空間に漂うよりも、身近で現実的な願望だという気がするからです。この欲求は自撮りの延長線上にあります。

 どうやら自分を見るためには他人になる必要がある。めったに話題にはしないものの、人はそのことに薄々気づいています。

 自分を見ることができないという恒常的な不満を無意識にかかえている人間が仮想現実に救いを求めるのは、ごく自然ななりゆきであり、必然であるとさえ思います。AIを駆使して個人情報である多量の映像や文書を処理し、CGを利用してその人をもう一人つくりあげる。

 そのもう一人の自分に、もとの自分が会いにいく。見る。対面する。声をかける。対話する。触る。触られる。「相手」の汗の味を舌で感じたり、腋臭を嗅ぐことさえできるかもしれません。

 満足のいくだけの臨場感をもって自分に会うことができるでしょうか。疑問に思われますが、やってみないと分からないでしょう。

 VRで自分に会いにいって気づくこともあるでしょう。考えられるのは、そこで会った自分がいぜんとして見えないということかもしれません。正確にいうと、臨場感が足りない気がするのです。つまり、がっかりするのです。

 VRで自分に会いにいって帰ってきてから気づくこともあるでしょう。考えられるのは、現実として目に映っている世界、聞こえてくる世界、匂いとしての世界、触れ触れられる世界こそが自分なのではないか、という思いかもしれません。

 世界こそが自分である。この気づきと死後の世界や天国やあの世を見たいという願望は紙一重だという気がします。来るところまで来ているからです。とはいえ、それが終りだとはとうてい思えません。